博物館の見どころ:

 

19986月、フィリピン革命百周年記念式典の一画として、国立博物館の新たなギャラリーがオープンした。これまでも国立博物館は、アメリカ植民地期に建てられた旧国会議事堂の建物(本来、博物館を目的として建てられたものだったが)の2、3階に鉱物、動・植物、民族、考古、建築、美術、天文など、フィリピンの自然・歴史・文化全般にわたる資料を展示してきた。しかしフィリピン独立革命百周年(1998)を期に、リサール公園の北端に位置する旧大蔵省の建物を全面改装して、新たに考古と民族の展示を中心に据えた『フィリピン人博物館(The Museum of the Filipino People)』を開館した。

 新たな博物館へリサール公園に面した中央入口から入ると、そこは3階建ての博物館の2階にあたる。この階にはフィリピンにおける水中考古学の最近の成果が3つのギャラリーに展示されており、そのうち2つは、オランダとの海戦で沈められたサンディエゴ(San Diego)号というスペイン船から引き上げられた遺物が展示されている。

スペイン船サンディエゴ号は16世紀末、商船として使用されていたが、マニラ湾に攻め込んでくるオランダ艦隊を迎え撃つために、急遽、戦艦に改装された。この海戦でスペイン艦隊の指揮を執ったのは、当時マニラで総督代理を務め、のちに『フィリピン諸島誌』(大航海叢書、岩波書店)を著したアントニオ・モルガであった。16001214日、マニラ湾口でオランダ艦隊との間に始まった海戦は、その舞台を徐々に南の海上へと移していった。しかし決定的な勝敗がつかないまま、サンディエゴ号は現在のバタンガス州西方海上に沈められた。沈没からかろうじて逃れたモルガであったが、彼はのちにこの海戦に勝利を収めたと記している。

サンディエゴ号の発掘は1991年から93年にかけて、フランスの調査隊とフィリピン国立博物館が共同で行われた。出土品には中国製を中心とする陶磁器や陶器が各4000点、フィリピンやペルーの土器1400点、象牙6点、大砲14門や砲弾200発、その他、剣・ヘルメットなどの武器、動物骨や植物種子など船員食料の残滓などが見られ、当時の交易品や船の中での生活、そして沈没前の戦闘のようすを生々しく伝える遺物が2つのギャラリーに展示されている。これらの展示によって、アジア交易の覇権をめぐるスペインとオランダの争いという歴史的事実ばかりでなく、16世紀末のアジアと新大陸、ヨーロッパを結んだ交易の実態を知ることができる。

サンディエゴ号の展示は1階にギャラリーにも続き、ここではサンディエゴ号が海底に沈んでいた様子を再現した展示を見ることができる。

2階のもうひとつのギャラリーでは、スペイン、オランダなどヨーロッパ勢力が到来する以前、11世紀から16世紀中頃までの5世紀の間アジア交易に携わり、フィリピン沿岸で沈没した5つの船から引き上げられた遺物を展示の中心に据えている。これらの遺物のほとんどは交易品として用いられた陶磁器や陶器で占められている。陶磁器・陶器は中国をはじめ、ベトナム、チャンパ,タイで製作されたもので、5世紀にわたる時代それぞれの特徴を示している。沈船のほとんどは中国製ジャンクと考えられており、中国人が東南アジアの海域で果たした重要な役割を示唆するものである。これら沈船のうち、パラワン島南部パンダナンで発見された沈船の積荷は、14世紀後半から15世紀はじめにかけての中国、ベトナム、チャンパの陶磁器7000点で占められていたことから、当時の交易船がさまざまな港で取引を繰り返しながら、東南アジアの海域を縦横に駆け巡っていた様子をうかがうことができる。なかでもチャンパ陶磁(青磁碗・褐釉壺)4500点は、ヒンドゥー王国チャンパの都ヴィジャヤ(現在のベトナム中部ビンディン省郊外)で焼かれたものであることが確認されており、チャンパ王国とフィリピン諸島との関係を考える上で重要な資料を提供している。

3階には、フィリピン人の来歴と未来をテーマとして、考古と民族の資料が3つのギャラリーに展示されている。フィリピン人の来歴については、旧石器時代(約数十万年前から1万年前)から新石器時代(1万年前から2000年前)、鉄器時代(2000年前から1000年前)、そして陶磁器の時代(9世紀から15世紀)まで、これまで調査された各時代の代表的遺跡から得られた考古資料を、限られたスペースでコンパクトにまとめて展示している。展示の手法には小・中学生の来館者に配慮して、単に遺物の羅列ではなく、AV装置による説明、遺跡が発見されたときの状況を再現したジオラマや、遺物を実際に手にすることができるような工夫がなされている。

フィリピン人の現状をテーマとしたギャラリーでは、代表的な民族の住居をいくつか復元し、そこに生活用具を配置して、日常生活の様子を再現している。さらに民族ごとの楽器や服装、農耕や漁労などの生業用具がところせましと展示されている。来館者はこの展示を見ることによって、フィリピン人、そしてフィリピンの文化の多様性を実感することが可能となっている。

3階のギャラリーでフィリピン人の来歴と現状を学んだ後、フィリピンの国民意識を高める仕上げとして25分間の映画が用意されている。この映画は「フィリピン人の物語」と題され、老人が孫たちの疑問、「フィリピン人はどこからやってきて、どこへ行くのか」に答えるかたちで、先史時代から現代までの歴史的事実や文化遺産を振り返るものとなっている。

フィリピン独立革命百周年を期に、国立博物館はフィリピン人としての国民意識の育成と高揚を明確に打ち出すかたちで新たにオープンした。その背景には百周年記念事業を推進してきたラモス前大統領夫妻の尽力があった。大統領府には国立博物館新設のための特別委員会が設置され、ラモス夫人が率先して資金援助を民間に求める活動を展開してきた。その結果としてフィリピン人としてのアイデンティティを確立するための啓蒙・教育に特化した博物館が実現したのである。 

しかしひとりの来館者としては、博物館全体の展示スペースの中でなぜサンディエゴ号に半分近くが割かれているのかという疑問が残る。新しい博物館がフィリピン人の国民意識の形成と強化を目的とするのであれば、なぜスペイン船の展示にこれほどまでに力を入れたのであろうか。

実はサンディエゴ号の遺物をめぐっては開館前から、テレビや新聞を舞台とした国民的な議論が持ち上がっていた。発掘調査が終了したサンディエゴ号の遺物は旧国会議事堂で小規模な展示会が開催された後、フィリピン国外に持ち出され、1994年にまずパリで、続いてマドリッド、ニューヨーク、ベルリンと毎年のように欧米で展示会が開催され、1997年暮までフィリピンに戻ってくることはなかった。これに対してメディアは敏感に反応し、新聞紙上やテレビ番組の中で、なぜフィリピンから出土したものを海外でこれほどまでに長く展示するのかという問題が取り上げられた。その結果、国立博物館の館長宛てに多くの人々から投書が寄せられ、サンディエゴ号の展示は国民感情を慎重に配慮して検討され、現在のように広い展示スペースを確保するようになったという経緯があった。

しかしそれでもなお、なぜスペインの遺物をフィリピンの文化遺産として取り戻そうとするのかという疑問が残る。サンディエゴ問題が議論されていた90年代中ごろは、独立革命百周年を迎えるにあたって国民意識を見直そうとする機運が高まった時期であり、シンガポールでのフィリピン人メイド死刑判決を契機として、フィリピン人が海外で不当な扱いを受けていることに対する国民の不満が政府へ向けられた時期でもあった。こうした国民意識をめぐる議論には、たとえスペインの遺物であっても、フィリピン国内で発見された以上フィリピンの歴史の一部であり、フィリピン人としてのアイデンティティ確立のための文化遺産として、その歴史的意義を認識していこうとする姿勢をうかがうことができる。

それは、スペインがかつて植民地宗主国としてフィリピン諸島の人びとを4百年にわたり支配してきた事実さえも消し去ることなく、多様な歴史的経緯を自らの歴史として認識し、取り込んでいこうとする姿勢である。そしてそのような国民的アイデンティティをめぐる議論自体が、フィリピン人としての国民意識を形成していく長い道のりのひとつの過程なのではないだろうか。

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